脱力感が体全体を覆いつつあるのを彼女は自覚する。
やがて、ステンレス製のシャワーは彼女の手から滑り落ち、浴室の床にごとりと落下した。
目標物を失い、死に絶えたように横たわったシャワーヘッドから放たれる水の軌跡をぼんやりと目で追いながら、彼女は自分が騙されていた事実をあらためて噛み締めた。
黒犬―くろくておおきものーは想像以上の大きさと迫力だった。
けれども、思っていたより組みしやすい相手でもあった。
「お前のかあちゃんデベソ」
今どき、幼稚園児でも怒らないであろう古典的な挑発をこっそりと耳元で囁いた途端、黒犬は激高し、力ずくで彼女をねじふせようと突進してきた。
お互いが野生に生きる身であったなら、たちまち黒犬にねじ伏せられたことは想像に難くない。
けれど、彼女は最初から最後まで冷静だった。
黒犬の突進を受けながら、この行為は満員電車でオナラをするのと似ているな、と思わずつぶやいたほど、心は11月の湖のように冴えわたっていた。

日中の陽気が嘘のように、夜になると雨が降り出していた。
浴室に座り込み、じっと水の流れを見つめていると、シャワーを通って外の雨が浴室内に降りこんでいるような錯覚に見舞われる。

シャワーを止め、体をぶるぶると震わせたあと、口角を耳の方向へと引き上げていた透明テープを剥がす。
長時間テープを貼っていたため、頬の周囲には微かな痛みがまとわりついていたが、このテープの効果は抜群だった。
黒犬の飼い主たちもあっという間に彼女のつくり笑顔の虜となった。
誰もが彼女の味方となり、黒犬はずっと拘束され続けていた。

残された仕事は、とどめをさすことだけだった。
拘束されたままの黒犬を日なたへとおびき寄せ、挑発し、苛立たせる。
7月の太陽に照らされたうえ、頭に血が上った黒犬は、上昇する体温を制御できず、やがてその動きを止めた。
腹ばいになった黒犬を横目に、彼女はビッグ・ビジネスの準備を始めた。
ただのビッグ・ビジネスではなかった。この瞬間のために、通常の3回分(当社比)を体内に溜め込んでいたのだ。
念入りに足場を固め、全身に力を漲らせて、彼女は溜まりに溜まった排泄物を押し出した。
永遠に伸び続けるかのような勢いで排泄されたものは、やがて地表に到達し、その動きを止めた。
彼女は大地とつながった。
「ハハハハ! 見て、見て! ハルさんのフンチョス、ながいっ!! ほら、地球とつながっとるよ! ハルさんが地球から生えとる!!! ワハハハハ!」
「ウッフフフフ」
この瞬間、矢折れ刀尽き、飼い主の寵愛を奪われたうえに、「笑い」までもっていかれた黒犬の目は、溶鉱炉で溶け出したターミネーターのそれのように、急速に光を失い、やがて消えた。
こうして、失意に見舞われた黒犬は饂飩の国へと帰っていった。
同時に、それは玉葱島が救済されたことを意味した。
黒犬が島を去った途端、小麦粉と‘いりこだし’の芳ばしい匂いが消え去り、玉葱たちが息を吹き返す。
ところが、玉葱が放つ匂いは、彼女に死を連想させるほどの悪臭であった。(注1)
そこに一秒でも留まっていられないほどの強烈な臭いが、いっせいに彼女のほうへと襲い掛かかる。
玉葱たちの弾けるような歓声を後にしながら、彼女はほうほうの体で島を後にした。
命を賭して得たはずの完全なる勝利が、するりと掌から零れ落ちるのを感じる。
玉葱たちは楽園を取り戻した。
ただし、犬が住めない楽園を。(注2)
いつだって勝利者のはずだったのに。
島と本土をつなぐ橋の上で、思わずつぶやいた彼女の目からこぼれ落ちた一筋の涙は、しばらく中空に留り、やがて海峡に消えた。
浴室の中、つま先から見えない尻尾の先まで、体の隅々を震わせる。
毛と毛の間に入り込んだ水気を体の外側へと追いやる。
彼女の体は踊るように舞い、そして跳ねた。
悪夢を追い払うかのように。
その時、鼻腔の隅にひっそりと残っていた小麦粉と‘いりこだし’の匂いが、微かに鼻をついた。
鼻先を震わせた拍子にこぼれ出たその芳醇な香りは、優しく彼女を包み込む。
操り手を失ったマリオネットのようだった体に再び力が漲るのを感じる。
本当に求めるべきものが、何であったのかを、今や彼女ははっきりと自覚していた。
今後、何をすべきか、どこへ向かうべきかについても、彼女には手に取るように分かった。
まるで魔法使いにでもなった気分だった。
開かれた浴室のドアから外に出る。
ドアの向こうではバスタオルが彼女のほうへと向けられていた。
目をつむり、バスタオルに向かって身を投じる。
脳裏に浮かんだのは、うどんの国で饂飩をすする彼女自身の姿だった。
さっきまであれほど不快に感じていた玉葱の臭いは、もうあまり気にならなくなっていた。
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(注1) 玉葱を食べると犬は死にます!
(注2) 淡路島のみなさんごめんなさいよ!!
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ようやく、玉葱島の戦いについて記録を終えることができました。
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