もうずいぶん昔のことになるが、ハルさんと夫と散歩していたときのことである。
私鉄の踏切に犬が倒れていた。

右の後ろ足がちぎれ、鼻と耳から血を流し、呼吸は荒く、目はどこでもない空間を見つめていたが、それでも犬は生きていた。
首輪をしていたので、とにかく首輪をさぐる。
首輪にはリードにつなぐフックだけが残っていた。
おそらくリードが切れて逃げ出し、そのまま電車に轢かれたのだろう。
古びた土色の首輪は飼い主の存在は示しても、飼い主の情報は教えてくれなかった。
ひどい話だが、わたしは犬が生きていることにすっかり動揺していた。
どうしていいのかまったくわからなくなってしまったのだ。
病院へ連れて行かなくては、とはやる心もある。
こんなちぎれた足で助かったとしても、この犬はこの先どうなるのかという疑問もある。
いったいどうしてこんなことになってしまったのか、見えないだれかを責める気持ちもある。
さまざまなことがぐるぐると頭をまわる。
とにかく夫に行きつけの動物病院へ電話してもらうことにしたが、病院は休診で電話には誰もでない。
どうしたらいい?わたしはますます混乱する。
このまま道の真ん中に倒れていては別の車にまた轢かれてしまう。
とにかく道のすみに移動させた方がいいのではないか。
でもまだ生きている。下手に動かさない方がいいのではないか。
そうこうしているうちに集金途中だというおじさんが来てくれ、
しばらく道の真ん中で、車が犬を轢かないよう交通整理をしてくれた。
「どーしたらええか、おじさん、ぜぇーんぜんわからへんわぁー」
のんきな笑顔で言いながら、通り過ぎる車1台1台に身振り手振りで事情を説明してくれる。
夫は市役所に電話をかけ、私鉄と連絡をつけるよう手配してくれた。
とても丁寧ではっきりした口調で、なんどもやりとりをしてくれていた。
わたしはその間、「わんこ、わんこ」と馬鹿みたいに繰り返し、犬の頭をなでていただけである。なんだか情けない。
こうしてまわりが四苦八苦しているうちに、犬の呼吸は止まり、目から光が失われていった。
あたたかな体はあたたかなまま、わたしの目の前で抜け殻になってしまった。
もう動かない。もうなにも感じない。痛みも、苦しみも、わたしの手の感触も。
とにかくここから動かそうということになり、夫とわたしで道の端へ運んだ。
集金途中のおじさんは、再び集金に出かけていった。
そして車の往来が、再び始まった。そこに犬などいなかったかのように。
犬と夫とわたしとハルさんは道端に座り込んで私鉄の人をじっと待つ。
わたしたちが通報するまえに、運転士から「犬をはねた」と連絡があったらしく、私鉄の人は意外に早くやってきた。
あとのことは私鉄の人にまかせ、わたしたちは家に帰った。
以前、ブログで「虹の橋の向こうへ」という文章を読んだ。

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動物たちは亡くなると、虹の橋の向こうに旅立つそうです。
そこではすべての傷が癒え、元気になって駆け回ることができるそうです。
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でもこのときのわたしは「虹の橋」をうまく信じることができなかった。
「虹の橋」はわたしの感情をうまく収めてくれなかった。
だからわたしはこう考えることにしたのである。
集金途中のおじさんが、手伝ってくれてよかった。
おじさんの交通整理が上手でよかった。
交通整理にしたがってくれた人たちが誰一人文句を言わなくてよかった。
夫がしっかりしていてくれてよかった。
市の人がすぐに対応してくれてよかった。
ハルさんがおとなしくしていてくれてよかった。
列車の運転士がすぐに通報してくれてよかった。
来てくれた係員さんが、感じのいい人でよかった。
犬が何度も轢かれなくてよかった。
どうか、どうか、飼い主がみつかりますように――。
現実の世界には、心を傷つけるものがそれはもうたくさんある。
けれど、虹の橋まで行かなくても、現実の世界にも、心を救い、癒してくれるものは確実に存在している。
虹の橋へ行く前の、あの犬にもそういうものがあったはずだ。
そう、信じずにはいられない。
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ハルさんは、一部始終を黙って見ていました。
いつものんきなイメージのハルさん、意外に繊細なのかもしれません。
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